新型コロナウイルス禍の猛威のため、連盟主催の三月の地区大会・五月四・五日に開催予定であった全国大会の中止決定に続き、ついに今日から稽古の場であったスポーツセンターまでも臨時休館となってしまいました。
今月新入門の方はせっかく稽古着・袴を買いそろえながら、わずか一日だけの稽古で、先の読めない休みとなり残念でなりません。
 目に見えない敵が真っ向から打ち下ろしてくる刃、こちらも負けてなるかと「切先返し」の業で受け流す如く、絶えず手洗い・うがいを心掛けて油断なく備えを固めておきましょう。


 平成二十八年、例年になく雨の多い九月の薄曇りの日の午後、近くの川土手から対岸に今は無人となった相原勝雄先生の旧宅が望めるマンションの一室に、先生のご息女・和子さんをお訪ねした。入門当時稽古の後、先生をお送りして何度か訪れた外国の設計士の方の手による、地下室まで備えたお洒落な洋風の旧宅は先生亡き後ご長男(和子さんの兄)が相続されたようであるが、天井が高く冬は寒さが厳しいため空き家となったとのこと。そのご長男もすでにお亡くなりになり、先生が保管されていた資料もかなり散失してしまったとのことだが、和子さんが保管されていた写真や書物をお借りでき、お話を伺えたことは先生のご経歴を知るうえで大変貴重な資料である。


 相原勝雄先生は、明治三十二年(1899)七月二十二日宮城県名取郡(仙台市の南東に隣接)にお生まれになった。父は明治三年生まれ、仙台藩士の四男で、成長の後実家を出て仙台第二師団に軍属として勤務されていた。馬術を得意とされていたとの事から乗馬や、調教の指導をされていたものと思われる。先生七歳の時、広島第五師団に転勤になられ一家三人で広島に転居された。ご両親は一人息子である先生が、知る人もいない見知らぬ土地でくじける事の無いよう心をくだかれ、特にお母様は、武士出身の子として恥ずかしくないよう厳しく育てられた。この頃から父の手ほどきで剣道を始められ、やがて旧浅野藩の同進社道場へ通うようになられた。
 明治四十三年(1910)、十一歳の時石井将之先師に入門。これが相原先生の「伯耆流居合術」との出会いであり、永き居合人生の始まりとなった。

 大正五年(1916)春、私立育英学校(のち廃校)を卒業、広島税務監督局(大蔵省の地方組織)に勤務。翌年には大日本武徳会広島支部に入会、仕事と剣術修業の両立に励まれた。この頃152センチと小柄で、面を取られやすい身長に悩まれた。その答えに導いてくれたのは当時広島高等師範学校の専任講師であった中島春海(熊本県出身・無刀流の達人・山岡鉄舟七高弟の一人)であった。「お前は突きで行け」この一言が先生のその後の剣道人生を開いたという。以来自宅まで押しかけて熱心に稽古を重ねた。
 中島先師の指導ぶりについて、存命中の相原先生が次のようにお話しされている。「ある夏の日、釣竿を二本持って先生のお供をした。南竹屋町にあったお堀に着くと、糸もつけず堀端にすわり、そのまま何時間も正眼に構えておられた。無想の境地というやつだ」中島先師の指導は技術面のみではなく、精神面の鍛錬も怠らなかったのである。
 *このお話に関連してお孫様の相原覚様が興味深い逸話を語られている。
    子供の頃、自宅近くの川岸で釣りをしていたところ、おじい様(相原先生)
   が通りかかられ「釣れるか?」と声をかけられた。「釣れん」と答えると「貸
   してみなさい」と釣竿を受け取り、瞬く間にハゼを二、三匹釣り上げられた。
   偶然のことだと思っていたら、さらに三匹、四匹と釣り上げたので驚いて、自
   宅に帰り父(相原先生のご長男)にその事を伝えると「それは”気”のなせる業
   だ」と答えられたという。

 大正十三年(1924)広島市連合青年団剣道大会、県青年団剣道大会に相次いで優勝し、十一月に内務省の主催で開催された記念すべき第一回明治神宮競技大会(現在の国民体育大会に相当する)剣道競技青年団員優勝試合の部に、広島県代表として出場されて優勝、一躍その名前は全国の剣道家の知るところとなった。当時二十五歳・無段。「剣道は人間をつくるものだ。段など取ることに血道を上げるな」が父の教えであった。この大会から二年後、一足飛びに三段に昇段、「突きの相原」「県内に相原の敵なし」と言われるほどの強さだった。

 昭和四年 (1929)一月  武徳会広島支部名誉教師
 同年        五月  天皇御即位記念天覧武道大会県代表として出場
 昭和七年 (1932)三月  武徳会剣道四段允許
 昭和九年 (1934)五月  皇太子御生誕記念天覧武道大会県代表として出場
 昭和十年 (1935)十二月 武徳会剣道五段允許
 昭和十一年(1936)一月  広島連隊司令部剣道教師就任
 昭和十二年(1937)一月  広島憲兵隊剣道教師就任
 昭和十七年(1942)十一月 武徳会総裁梨本宮天覧試合県代表として出場
 昭和二十年(1945)五月  武徳会剣道達士称号を授与される。

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原爆投下当時は四十六歳、戦時施設課長の役職に就かれていた。爆心地から1.5キロの台屋町(現・京橋町)の自宅で被爆された。
 「青白い光閃が屋外一杯に満ちた瞬間、物凄い音と共に家屋は倒壊した。」
昭和二十五年(1950)広島市がまとめた「原爆体験記」に先生も手記を寄せられている。先生・奥様・次女の和子さん(当時一歳)とお父様は軽傷だったがお母様と六歳の三男義雄さんが家屋の下敷きになった。お母様は助け出すことができたが、やっとの思いで掘り出した義雄さんは息絶えておられた。外出先で被爆された次男勝則さん(十二歳)は大やけどを負って帰宅され先生が背負って避難されたとの事。しかし職場の事や、同僚たちの事が心配で、勝則さんを知人に託し、すぐに財務局が入っていた日銀広島支店に駆けつけ懸命に救護活動にあたられた。二日後の八日に勝則さんは亡くなられた。「時折亡き二人の可愛い子供の事が思われてならない。只済まなかったの気持ちが沸いて来る」と記されている。ご自身も傷を負い、ご家族の事を思いながら仕事に対する責任感や、苦しんでいる人々を捨て置くこともできない状況の中での葛藤は計り知れない。
 「・・・・・・・もともと、この資料は広島税務監督局の倉庫に眠っていたものを戦時中同局勤務の相原勝雄氏の識見と熱意により非常な労苦をおかけして可部町に疎開されていたため、幸いにも原爆の惨禍をまぬがれたもののよしである。・・・・」
 (中国五県土地・租税資料文庫目録 広島大学附属図書館 昭和四十年三月二十日発行
                        後藤陽一     あとがきより抜粋)
このことにより慶長年間以降の地籍や税務に関する研究に大変役立つこととなったとのこと。先生の熱心な仕事ぶりがわかる逸話である。

 戦後忠海・西条など各地の税務署長を務められ、広島税務講習所(現・税務大学校)所長を最後に昭和二十七年(1952)春、定年退職。国税庁長官であった高橋衛氏の斡旋により、竹原市出身の元大蔵官僚、池田勇人代議士(当時通産大臣)の国元秘書となられた。池田氏の選挙区の事情に精通しておられたので、選挙のたびに獅子奮迅の働きをされ池田首相誕生の一翼を担われ昭和四十年(1965)八月池田首相が逝去されるまで勤められた。
 また、剣道人としての活動も精力的に取り組まれ、連合軍による占領が解除された昭和二十七年(1952)全日本剣道連盟発足と共に広島県剣道連盟が発足し監事に就任。その後の剣歴は以下の通り。
 
 昭和二十八年(1953)九月 中国ブロック剣道連盟評議員
 昭和二十九年(1954)四月 広島県剣道連盟常任理事
 同年           五月 全日本居合道連盟発足
                 (会長池田勇人・理事長河野百錬)
 昭和三十年 (1955)九月 第十回国民体育大会県代表として出場
 昭和三十一年(1956)九月 第十一回    〃    〃 
         *この大会を最後に第一線から退き後進の指導に専念される
   昭和三十二年(1957)四月 全日本剣道連盟剣道六段
 昭和三十三年(1958)五月 全日本居合道連盟八段
 昭和三十七年(1962)五月 全日本居合道連盟より範士の称号を授与
 昭和四十年 (1965)五月 居合道九段に昇進
 昭和四十一年(1966)四月 広島県剣道連盟副会長就任
 同年                広島市剣道連盟会長就任
 昭和四十七年(1972)五月 居合道十段に昇進
 昭和四十八年(1973)五月 全日本居合道連盟より功労者表彰を受ける
 昭和五十年   (1975)五月 全日本居合道連盟副理事長に就任
 昭和五十一年(1976)七月 全日本居合道連盟副会長に就任

 昭和三十五年に総理大臣になられた池田勇人氏の国元秘書という重責を全うしながらの活動であること、原爆による後遺症を抱えておられたことなどを考えると、先生の剣に対する情熱と努力は想像を絶するものがある。
 また、この間には、昭和三十一年全日本剣道連盟が、当初除外していた居合道部を創設し、猶予期間は設けられていたが、「全日本剣道連盟に所属していない者は剣道連盟の行事に参加させない。」「他連盟との重複加盟は禁止する。」との決定がなされ、居合道と剣道の両方に関わっていた多くの人が剣道連盟の居合道部に移る結果となった。それは相原先生にとっても、苦しい決断を迫られる事でもある。剣道の指導者として活動されていたご長男は、広島県の伯耆流と多くの門弟の将来のために剣道連盟に移るべきと、強く勧められた。しかし、全日本居合道連盟の設立と、ご自身が秘書を務められていた池田勇人代議士の、連盟の初代会長就任に深く関わられた責任を考慮して居合道連盟に残留する決断をなされた。
 昭和四十九年、連盟理事長であった河野百錬先生が死去されると、無双直伝英信流宗家の継承問題が起こり、全日本居合道連盟の分裂にまで発展した。
広島県の居合道界も「全日本居合道連盟」と、新たに結成された「全国居合道連盟」の二派に分かれ、剣道連盟と合わせ三派が存在することとなった。
この時も相原先生は、責任上「全日本居合道連盟」に残られたのであるが、そのお心うちは大変な葛藤であったことと推察される。

 そのほか「日東流剣詩舞道」の宗家としても多くの門弟のご指導をされ、昭和四十年には「広島剣友会」が設立され、会長として伯耆流居合道と、日東流剣詩舞道の普及・発展に努められた。
 昭和五十年、「広島剣友会」設立十周年を記念して「伯耆流居合道教書」を刊行された。翌五十一年秋、広島市南区・比治山遊園大ホールに於いて多数の門弟や、ご交流のあった方々が集い、喜寿のお祝いが盛大に執り行われた。

  私は、この年の二月に広島剣友会堀越支部に入門。相原先生より直接ご指導いただい
 た。礼法・姿勢態度・目付・構えなど基本的なことに厳しく、特に”瞬き”については一本の 
 業の中で何回瞬きしたか数えておられ、「瞬きの一瞬が隙になる」と、よく注意を受けた。
 道場の稽古の休憩時には、冬は先生お手製の玉子酒・夏は冷たい飲み物(オロナミンCがお
 好きのようだった)をたびたび振舞っていただいた。当時堀越支部の支部長先生は、お仕事
 のため九州に出向されていたが、相原先生は「陰膳」と称し必ず一杯余分に用意されてい
 た。「武士の細やかな心使い」「礼節」を重んじられるお姿に、「居合道は、人間完成の道
 である」の教えを身をもって示してくださったものと深く感銘を受けた。

 この当時まで、自ら防具を身に着け小中学生に剣道のご指導をされていた。夕方から子供たちの剣道指導、続いて七時から一般の居合道の指導と、お年を感じさせないほどお元気であったが、翌年少年たちの剣道指導からは身を引かれ、その後も連盟の重鎮として後進の育成に寄与され、平成元年(1989)四月十五日、八十九歳で逝去された。

      *参考文献

        剣道人国記  俊英・相原勝雄の活躍    馬岡 健   剣道日本

            剣と人物を描く昭和の剣豪⑤ 相原勝雄   小西 重治郎 剣道時代


 古来より幾多の先人たちが守り、伝えてきた日本文化の象徴ともいえる武道が、明治維新の廃刀令と武士階級の廃止により一旦は衰退したものの、大日本武徳会の設立によりその技術と精神が途絶えることなく受け継がれてきました。しかし昭和の戦争と、特に広島においては原爆の惨禍により数々の貴重な伝統が失われてしまいました。そんな厳しい状況の中で我が伯耆流居合術は、恩師相原勝雄先生のご活躍とご指導により、たくさんの門弟たちが育てられました。先生がこの世を去られ三十年近くが経過し直接ご指導を受けた門弟も高齢となり先生の業績を知る者も少なくなっています。今後伯耆流居合道を学ぶ人たちに流儀の継承と合わせて広島に伝わる伯耆流の歴史と相原勝雄先生のご偉功を伝承していく事は、先生からご指導をお受けした者の責務だと考え資料を集め、ここにまとめさせていただきました。


               片山伯耆守藤原久安

   片山伯耆守藤原久安は刀術を好み、抜刀妙術を悟る。或時阿太古社に詣で精妙を  
  得ん事を祈る。是夜貫の字を夢みる。覚て後惺然として明悟す。関白秀次公其術の
  精妙なるを聞き、営中に召して、其芸を学ぶ。慶長十五年庚戌年仲呂八日其芸を以
  て参内し、従五位下伯耆守に任ぜられ芳名四海に顕る。                                   
   後周防に赴き、又芸州に移る。後周防において死す。其子伯耆守久勝箕裘の芸を
  継ぎ吉川家に居る。後江戸に来り刀術を以て大いに鳴る。後又周防に帰る。諸州其
  の末流多し。
   三谷正直曰く、伯耆守久安周防より芸州に来る。浅野家の士多く久安に従いて其
  術を習う。大桑清右衛門と云人其一貫を得たりと。

              武術叢書[本朝武芸小伝巻六]より
                            原文漢文

       *庚戌年仲呂八日 (かのえいぬとしちゅうりょようか) 仲呂とは四月の事
      箕裘  (ききゅう)  父祖の業

第一章
流浪、そして岩国へ
 流祖片山伯耆守藤原久安公は、関白豊臣秀次・秀頼の剣術指南役として仕え、元和元年(1615)大阪夏の陣により豊臣家が滅亡した後は、西国各地を流浪しながら、片山流剣術を広め、その後周防岩国の地に入り元和二年(1616)岩国藩主吉川広家公の客分として十人扶持十俵を給わり、玖珂郡祖生村に居住し、広家公の嗣子広正の剣術指南となった。この時久安公四十二歳であったという。また、芸州広島藩にも二度にわたり数年間訪れ多くの広島藩士にその流儀を伝え、大桑清右衛門が免許を得、広島の伯耆流の礎を築き、おなじく門人の浅見一無斎有次は肥後熊本藩の礎となったと伝えられている。
 元和九年頃岩国藩士佐伯吉兵衛直信の娘を娶り、久勝・久隆が誕生した。長子久勝は後江戸へ出て心慟流を興し、次男久隆公が正統を継承した。久隆公も小伯耆と呼ばれるほど名声が高く、江戸に出て流儀を広め、晩年岩国に帰り岩国藩の剣術師家の一つとなった。久安公が開いた片山流剣術は久安・久隆公の二代により岩国の地で整えられたといわれている。片山家では代々剣術と居合術・小具足(最古の柔術ともいわれる竹内流系という説がある)を合わせて片山流剣術と称し、伯耆流の名称は用いなかったが、後世の者が居合術だけを伯耆流と呼ぶようになったといわれている。
 久安公は慶安三年(1650)三月七日岩国にて没す。七十六歳であった。


伝承
 安永六年(1777)熊本藩士・星野角右衛門先師は自藩に伝わる伯耆流居合術(熊本の伯耆流は、浅見一無斎有次に始まりその後入江派・熊谷派の二派が存在した)を正すため岩国を訪れ、片山家第四代・久義公より流儀を学び熊本で伯耆流を指導した。その後星野家で皆伝を授けられた者は、岩国の片山家に赴き、手ほどきをうけるということが幾度となく行われ、伯耆流の道統は熊本でも受け継がれることとなった。星野家の道場では伯耆流居合術と共に、楊心流薙刀術と四天流組打の三芸が指南されており、これら三芸のすべてで皆伝を受けなければ皆伝者と認められなかったという。

 安永十年(1781)広島藩士・岸源蔵が片山家を訪れ、広島藩に伝わる流儀の手直しを受けたことが片山家文書の中に残っている。岩国と広島の地は近い距離にあるため、幕末に至るまでには多くの広島藩士が門人として片山流剣術を学び、広島に伝わる片山家伯耆流を守ってきたことがうかがえる。*慶応年間に広島藩で教授されていた数々の武術流派の中に「伯耆流居合」の名が記載されている。

 やがて明治維新(1868)を迎え、新政府による廃藩置県・廃刀令などの施策により、武士の時代は終わりを告げ、永々と受け継がれてきた各流派の武術は衰退の一途をたどることとなった。
 第十代・星野九門実則先師は、明治五年(1872)父である第八代・星野如雲実直公より伯耆流居合術・楊心流薙刀術・四天流組打の三芸の皆伝を授けられ、第七代・星野龍介公同様、岩国に赴き、片山家第七代・片山本蔵久寿公に片山伯耆流を学んだ。明治十五年(1882)九門先師は維新以後衰退していた熊本の武術を再興するため、振武会設立の委員として精力的に活動し、振武会講武所の居合・薙刀・体術の師範を務められた。明治二十八年(1895)武道振興を目的として、大日本武徳会が結成され各種の武術団体・流派が参加した。明治三十年(1897)大日本武徳会熊本支部が開設されると、振武会は武徳会に合流した。当時の武徳会には、段位の制度はなく優れた技能の者には、教士・範士の称号を授与した。(のちに錬士が加わる)九門先師は、明治三十六年(1903)嘉納治五郎らと共に最初の柔道範士となり、同四十三年(1910)には居合術範士を授与された。

 九門門下の、元熊本藩士・大日本武徳会居合術教士・薙刀術教士の石井将之先師は、京都帝国大学で楊心流薙刀術の師範を務めておられたが、旧広島藩・浅野家の招請により、広島高等女学校[明治三十四年(1901)創立・現広島県立皆実高等学校]の講師として迎えられ広島市において伯耆流居合術と楊心流薙刀術の指導に専念された。これにより、岩国・片山家伝来の広島の伯耆流は熊本・星野家道統の伯耆流として、相原勝雄先生へと継承された。

 九門先師は、大正五年(1916)三月、七十三歳で死去。子息星野龍太実重先師が第十一代を継承され、昭和十三年(1938)片山家第八代・片山武助久道先師を熊本に招き、片山伯耆流を学んだ。
 片山武助久道先師は片山流剣術の伝承を断念され、昭和十九年(1944)九月二日、広島市に居住されておられた子息片山務人(つとむ)宅にて七十六歳で死去された。伝書を含む家伝の古文書は岩国の吉川報效会に寄贈され現在岩国徴古館に収蔵されている。また、務人氏とその妻子は翌年の八月六日広島市に投下された原子爆弾によって全員死亡、片山家の道統はここに絶えた。

   *参考文献 
     伯耆流居合詳説 伯耆流居合道研究会 済寧館道場編 

      伯耆流肥後の道統  剣道日本    スキージャーナル    

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