2019年12月


 古来より幾多の先人たちが守り、伝えてきた日本文化の象徴ともいえる武道が、明治維新の廃刀令と武士階級の廃止により一旦は衰退したものの、大日本武徳会の設立によりその技術と精神が途絶えることなく受け継がれてきました。しかし昭和の戦争と、特に広島においては原爆の惨禍により数々の貴重な伝統が失われてしまいました。そんな厳しい状況の中で我が伯耆流居合術は、恩師相原勝雄先生のご活躍とご指導により、たくさんの門弟たちが育てられました。先生がこの世を去られ三十年近くが経過し直接ご指導を受けた門弟も高齢となり先生の業績を知る者も少なくなっています。今後伯耆流居合道を学ぶ人たちに流儀の継承と合わせて広島に伝わる伯耆流の歴史と相原勝雄先生のご偉功を伝承していく事は、先生からご指導をお受けした者の責務だと考え資料を集め、ここにまとめさせていただきました。


               片山伯耆守藤原久安

   片山伯耆守藤原久安は刀術を好み、抜刀妙術を悟る。或時阿太古社に詣で精妙を  
  得ん事を祈る。是夜貫の字を夢みる。覚て後惺然として明悟す。関白秀次公其術の
  精妙なるを聞き、営中に召して、其芸を学ぶ。慶長十五年庚戌年仲呂八日其芸を以
  て参内し、従五位下伯耆守に任ぜられ芳名四海に顕る。                                   
   後周防に赴き、又芸州に移る。後周防において死す。其子伯耆守久勝箕裘の芸を
  継ぎ吉川家に居る。後江戸に来り刀術を以て大いに鳴る。後又周防に帰る。諸州其
  の末流多し。
   三谷正直曰く、伯耆守久安周防より芸州に来る。浅野家の士多く久安に従いて其
  術を習う。大桑清右衛門と云人其一貫を得たりと。

              武術叢書[本朝武芸小伝巻六]より
                            原文漢文

       *庚戌年仲呂八日 (かのえいぬとしちゅうりょようか) 仲呂とは四月の事
      箕裘  (ききゅう)  父祖の業

第一章
流浪、そして岩国へ
 流祖片山伯耆守藤原久安公は、関白豊臣秀次・秀頼の剣術指南役として仕え、元和元年(1615)大阪夏の陣により豊臣家が滅亡した後は、西国各地を流浪しながら、片山流剣術を広め、その後周防岩国の地に入り元和二年(1616)岩国藩主吉川広家公の客分として十人扶持十俵を給わり、玖珂郡祖生村に居住し、広家公の嗣子広正の剣術指南となった。この時久安公四十二歳であったという。また、芸州広島藩にも二度にわたり数年間訪れ多くの広島藩士にその流儀を伝え、大桑清右衛門が免許を得、広島の伯耆流の礎を築き、おなじく門人の浅見一無斎有次は肥後熊本藩の礎となったと伝えられている。
 元和九年頃岩国藩士佐伯吉兵衛直信の娘を娶り、久勝・久隆が誕生した。長子久勝は後江戸へ出て心慟流を興し、次男久隆公が正統を継承した。久隆公も小伯耆と呼ばれるほど名声が高く、江戸に出て流儀を広め、晩年岩国に帰り岩国藩の剣術師家の一つとなった。久安公が開いた片山流剣術は久安・久隆公の二代により岩国の地で整えられたといわれている。片山家では代々剣術と居合術・小具足(最古の柔術ともいわれる竹内流系という説がある)を合わせて片山流剣術と称し、伯耆流の名称は用いなかったが、後世の者が居合術だけを伯耆流と呼ぶようになったといわれている。
 久安公は慶安三年(1650)三月七日岩国にて没す。七十六歳であった。


伝承
 安永六年(1777)熊本藩士・星野角右衛門先師は自藩に伝わる伯耆流居合術(熊本の伯耆流は、浅見一無斎有次に始まりその後入江派・熊谷派の二派が存在した)を正すため岩国を訪れ、片山家第四代・久義公より流儀を学び熊本で伯耆流を指導した。その後星野家で皆伝を授けられた者は、岩国の片山家に赴き、手ほどきをうけるということが幾度となく行われ、伯耆流の道統は熊本でも受け継がれることとなった。星野家の道場では伯耆流居合術と共に、楊心流薙刀術と四天流組打の三芸が指南されており、これら三芸のすべてで皆伝を受けなければ皆伝者と認められなかったという。

 安永十年(1781)広島藩士・岸源蔵が片山家を訪れ、広島藩に伝わる流儀の手直しを受けたことが片山家文書の中に残っている。岩国と広島の地は近い距離にあるため、幕末に至るまでには多くの広島藩士が門人として片山流剣術を学び、広島に伝わる片山家伯耆流を守ってきたことがうかがえる。*慶応年間に広島藩で教授されていた数々の武術流派の中に「伯耆流居合」の名が記載されている。

 やがて明治維新(1868)を迎え、新政府による廃藩置県・廃刀令などの施策により、武士の時代は終わりを告げ、永々と受け継がれてきた各流派の武術は衰退の一途をたどることとなった。
 第十代・星野九門実則先師は、明治五年(1872)父である第八代・星野如雲実直公より伯耆流居合術・楊心流薙刀術・四天流組打の三芸の皆伝を授けられ、第七代・星野龍介公同様、岩国に赴き、片山家第七代・片山本蔵久寿公に片山伯耆流を学んだ。明治十五年(1882)九門先師は維新以後衰退していた熊本の武術を再興するため、振武会設立の委員として精力的に活動し、振武会講武所の居合・薙刀・体術の師範を務められた。明治二十八年(1895)武道振興を目的として、大日本武徳会が結成され各種の武術団体・流派が参加した。明治三十年(1897)大日本武徳会熊本支部が開設されると、振武会は武徳会に合流した。当時の武徳会には、段位の制度はなく優れた技能の者には、教士・範士の称号を授与した。(のちに錬士が加わる)九門先師は、明治三十六年(1903)嘉納治五郎らと共に最初の柔道範士となり、同四十三年(1910)には居合術範士を授与された。

 九門門下の、元熊本藩士・大日本武徳会居合術教士・薙刀術教士の石井将之先師は、京都帝国大学で楊心流薙刀術の師範を務めておられたが、旧広島藩・浅野家の招請により、広島高等女学校[明治三十四年(1901)創立・現広島県立皆実高等学校]の講師として迎えられ広島市において伯耆流居合術と楊心流薙刀術の指導に専念された。これにより、岩国・片山家伝来の広島の伯耆流は熊本・星野家道統の伯耆流として、相原勝雄先生へと継承された。

 九門先師は、大正五年(1916)三月、七十三歳で死去。子息星野龍太実重先師が第十一代を継承され、昭和十三年(1938)片山家第八代・片山武助久道先師を熊本に招き、片山伯耆流を学んだ。
 片山武助久道先師は片山流剣術の伝承を断念され、昭和十九年(1944)九月二日、広島市に居住されておられた子息片山務人(つとむ)宅にて七十六歳で死去された。伝書を含む家伝の古文書は岩国の吉川報效会に寄贈され現在岩国徴古館に収蔵されている。また、務人氏とその妻子は翌年の八月六日広島市に投下された原子爆弾によって全員死亡、片山家の道統はここに絶えた。

   *参考文献 
     伯耆流居合詳説 伯耆流居合道研究会 済寧館道場編 

      伯耆流肥後の道統  剣道日本    スキージャーナル    

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  昨日、新しい仲間が加わりました。二十歳の青年です。道着は間に合いませんでしたが、早速刀を手に稽古をしました。




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